NHKの大河ドラマ「篤姫」

NHKの大河ドラマ「篤姫」が好調です。視聴率も25%を越えているそうです。宮崎あおいさん演じる天璋院篤姫の波乱に満ちた生涯を描いています。
篤姫は幕末の天保6年(1835年)に薩摩藩(いまの鹿児島県)藩主、島津家の分家の娘として生まれます。娘の名前は「於一」。島津家の分家の娘でありながら、篤姫は薩摩藩主・島津斉彬の養女、右大臣・近衛忠煕の養女となり、安政3年(1856年)に将軍徳川家定の正室にまでのぼりつめた人物です。
いままでの大河ドラマはおもに男性や男女仲を取り扱っていましたが、今回の大河ドラマは外様大名の分家の娘から将軍の正室になるというシンデレラストーリーや大奥内の女性同士の葛藤なども描かれ、いままでとは違った視線で描かれているのが人気なのかもしれません。
篤姫は徳川将軍の正室となったあとわずか1年9ヵ月で夫である家定が亡くなってしまい、その後天璋院と名乗ります。ドラマでは堀北真希さん演じる皇族の和宮との確執や松田翔太さん演じる徳川家茂死後の和解、西郷隆盛(小澤征悦)と勝海舟(北大路欣也)との会談における江戸城無血開城での篤姫の働きがドラマのハイライトといえるでしょう。

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篤姫はどうして正室になれたのか

篤姫は島津家の分家の娘なのにどうして徳川家の将軍の正室となれたのでしょうか?それにはさまざまな偶然が重なったといえるでしょう。
当時将軍家では徳川家定の正室が2人(鷹司政煕の娘・任子、一条忠良の娘・秀子)も続けて早くに亡くなったため、次は丈夫な御台所をということで母親の推挙で薩摩の島津家に話が来たといいます。
しかし島津斉彬には当時よい年頃の実の娘がおらず、親戚筋の大名家にもそのような娘はいなかったため、分家の篤姫に白羽の矢が立ったのでした。
建前上は将軍家が外様大名の分家の娘を正室にできないので篤姫を斉彬の養女にしたあと、公家である近衛忠煕の養女になって五摂家である近衛家の女性として嫁ぐことになりました。
将軍家と島津家の双方の事情で篤姫が正室となったというのは歴史の偶然を感じますね。

晩年の篤姫

篤姫は慶応3年(1867年)の大政奉還から鳥羽・伏見の戦い、江戸城無血開城という歴史の転換点に巻き込まれていくことになります。
江戸城無血開城では和宮と2人とも大奥の持ち物は一切持ち出さなかったといいます。
篤姫はその後大奥女中の再就職や縁組みに奔走し、さらに徳川家達を一時引き取り養育し、婚姻を済ませるなどしました。
明治16年に篤姫は一橋邸(現在の千代田区大手町1丁目)にて49歳で亡くなりました。亡くなったときにはわずか3円(いまのお金にして6万円ほど)しか所持金がなかったそうです。大奥の再就職などでかなり切りつめていたようです。
篤姫の一生を深く知るのならNHKの大河ドラマの原作「天璋院篤姫」(宮尾登美子)上・下や「幕末の大奥」(畑尚子)を読んでみると面白いです。

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